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宇宙創世からの神のシナリオが明かされた!
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⑩皆さんは、皆さんの「魂(自分自身)」が消えるか残るかの瀬戸際にいる
 皆さんのいう存在は、「魂」が先にあって「肉体」は後の後、つまり、「魂」があって「肉体」があるのです。(これは、「神」があって「人」がある=「神」なくて「人」はない、ともいえます。)これが後々重要なことになりますので、ここでしっかりと覚えておいてください)。「肉体」で体験している「自分」という存在は、「魂」が「肉体」を通して創りだしている(感覚として翻訳している)ものなのです。皆さんは、(肉体がなくなる)「死」を恐れていますが、「魂」のイノチがなくなれば、「肉体」の命どころの話ではなく、「新しい時代」に生きることができなくなるのです。
 今ここまできて、この後に及んで「肉体の死」や「財産」や「地位」や「名誉」や「常識」や「病気」や「非行」や「不倫」や「損得」や「保身」や「裁判」云々で、大騒ぎしている場合ではないのです。
 
 数々の予言書に書かれているような、世紀末の「天変地異、大掃除」というのは、「魂」が消えるか残るか、皆さんの「魂(今世の肉体ではありません)」が生まれて以来、三〇〇〇年たって初めて迎える、「魂(皆さん自身)」が新しい世界に生きるか、今世を限りに死ぬかという選択を迫られる「大峠」のことなのです。皆さんという「魂」は、今ここで選択を間違えば、本当の意味での「大変なこと」「取り返しのつかないこと」を体験することになるという瀬戸際にきているということです。
 皆さんの今置かれている状況からすれば、皆さんが言っている「大変なこと」や「死にたくなること」や「肉体上の不老不死」や「損得計算」などは、取るに足らない、どうでもよい小さなことなのです。
 
⑪皆さんの外側には皆さんを「苦しめるもの」は何もない
 皆さんは、「○○があるから自分はこうしているのだ」と思い込んでいますが、本当は「○○があるからこうするしかないと自分がきめているからそうなっている」のです。皆さんがそういうシナリオ(宗教、観念、想念、基準)を選んでいるから、そういうセリフを語ることになるような体験をしているのです。皆さんがつくった作品を見た結果を言葉で表しているのです。皆さんがそれを言いつづける限り、その状況は変わりません。それどころか、皆さんに責任転嫁された「人」や「モノ」や「状況」にとっては、いい迷惑なのです。皆さんは、自分のしたことを自分以外のせいにして、平然と「自分の正しさ」を主張するという、神から見たら「真実を何も知らない(無知)」ことを自分から白状している気違いなのです。
 皆さんがどんな理屈をこねようとも、皆さんが体験していることは、すべて皆さん自身が選んでいるシナリオが創りだすものです。つまり、皆さんの体験は、すべて皆さん自身が創りだしているものなのです。ですから、皆さんがどんな体験をしようと、本当は「人の責任であるものは一つもない」のです。これを否定すると、ますます「人の責任にしたくなるような」体験が増えていくことになるだけですので、悪しからず。
 いつまでも「人の責任」や「状況の責任」にしていると、最後の最期に「すべて自分の責任である」ことを自覚することになるような出来事として、すべて自分のところに返ってくることになります。「人の責任ゲームをやめましょう」という提案は、神の仕組みに基づいた、皆さん自身のためのものなのです。
 皆さんは、「でも、現実に目の前にたくさんも問題があるじゃないか」というかもしれません。でも、それは、皆さんが「自分の体験は自分の外側に責任がある」という選択をしているから、そういうセリフを言う結果になっているのです。
 皆さんの外側にあるものは、すべて、皆さんの内側のあるものの投影です。皆さんの内側が綺麗に掃除されていれば、皆さんの内側に○や×や責任転嫁がなければ、「困難」や「苦しみ」を感じる状況は目の前に現れなくなってくるのです。
 「でも~」のセリフを言っている限り、「自分の外に問題(に見える出来事)がある」と責任転嫁をしていますから、その「問題」は永遠になくなりません。すべては、皆さん自身の自覚の問題(皆さん次第でどうにでも変わるということ)なのです。
 皆さんが体験している「現実」というのは、すべて、皆さんのした選択に忠実に「目に見えないメカニズム」が働いた結果です。本当は、皆さんの外側には、皆さんを「苦しめるもの」などというものは、何一つありません。皆さんが、「苦しみ」や「トラブル」を体験するのは、後で述べる「神の大きな法則」に反するシナリオを皆さんが描く(そういう「宗教」を創りだす)と、それをしていることを教えるために「困難」や「トラブル」や「苦しみ」を感じるようなメカニズムが働くからなのです。
 皆さんの悩みを救うべき宗教が「大きな法則」に反した宗教であるとしたら、皆さんの悩みを救うどころか、ますます、悩みを創りだすことになってしまうのです。
 
 詳しいことは後で書きますが、実を言うと、皆さんがこの道理を理解できないと、今までの堂々巡りのゲームからは永遠に抜け出せないばかりか、この先は、新しい時代に向けて、本来の方向へ戻す舞台作りが進みますから、このメカニズムに従って、今まで以上の速さで、ますますトラブルや悩みを創りだすことになり、「新しい時代」どころの話ではなくなってしまうのです。これは、皆さんが今まで学んできたこととは、まったくアベコベのメカニズムであり、おそらく、今回初めて聞かされたという方がほとんどでしょう。今まで教わってきたこと(「あやま知」)は、このメカニズム自体を否定することになる見方なのですから。でも、このことを認めないと皆さんは地獄への道を転がり続けることになるということをよく覚えておいてください。
 
⑫皆さんの多くは「あやま知」という「宗教」に狂っている
 多くの皆さんは、「教祖様」が言っていることや、「○○教」の言っていることや、「神様」という言葉が出てくるものや、「目に見えない世界」のことが出てくるものを「宗教だ」と定義付けしているようですが、皆さんの回りの人が言っていることや、皆さん自身が「世の中は甘くない」云々と言っているのも、すべて「宗教」なのです。
「人生どう生きるべきか」「自分の見たものをどう解釈するか」という表現のものを「哲学」と定義付けしているようですが、これもまた「宗教」なのです。そして、他でもなく、「これは哲学、これは宗教」云々、と定義付けしている皆さんのその定義自体が「宗教」なのです。皆さんは、その基準に従って、目の前のものを見て、解釈して、動いて、形にしていっているということですから、その結果は、すべて皆さん自身の責任です。
 皆さんが、「宗教」を特別な人がやる神様ごとであるとか、「哲学」を単なる学問であるとか、人のやっていることを見て「変な宗教に狂っている」などと思っているとしたら、それも皆さん自身の「宗教」であることはもちろんですが、皆さんは大きな取り違いをしていることにもなります。実は、そういう「宗教」で、ある「宗教」(自分が認めていること以外の見方、考え方、「宗教」)を拒否しているから、皆さんは真実を知る機会もなく、未だに混乱の中にいるのです。神様から見れば、皆さんは、ご自分のなさっていることを全くわかっていないという証明を自分自身でしていることになります。
 これは、今まで学んできたことでは、納得できないかもしれませんが、それは、今まで学んできたことが、そういうことに気づくことができない、まったくアベコベの「大きな宗教(「あやま知」)だからです。つまり、納得できないということは、皆さんが「あやま知」を選択している証拠なのです。皆さんがこれを認めないと、話が進まないばかりか、この先の自分自身の人生にも大きな影響がでてくることになります。
 ここに書いてあることと今まで学んできた「あやま知」とは「裏と表」の関係です。つまり、皆さんがここに書いてあることについて「批判」や「判断」を始めること自体が、「あやま知」に囚われている証拠であり、「あやま知」を選んでいることを自分自身で白状していることになるのです。「私は違う」と言っても、それも自分の正当性の主張ですから同じことです。
 皆さんは本来、いちいち自分が何を選択しているかを人に説明する必要はないのです。皆さんの言ったこと、したことを「批判」したり、「判断」したりすることを始める人は「あやま知」の中にいますから、それにまた反論するならば、相手と同じことをしているだけでなく、皆さんは永遠にその中から出られなくなります。
 そして、皆さんが、そういうゲームをしている限り、もう一つの現実を見ることはできません。今回の分岐点は、一方をキレイサッパリ捨てて、もう一方を選ぶという「どっちの宗教に狂うか」という、どっちか一つの選択です。
 皆さんの外側にはもともと○も×もないのです。皆さんが「判断というゲーム」ができるのは、皆さんの内側に○や×を持っているからです。そして、その○や×は「ある」のではなくて皆さんが「選んだ」ものなのです。皆さんが、○か×か何方かを選んでいるのです。ということは、皆さんの目の前のものには○と×の二つの見方がある(言い方を換えると、目の前ものには意味はない)ということになります。
 皆さんが「○×は外側にある」という「宗教」を選んでいれば、その現実がいつまでも続くだけです。実際は、皆さんが二つの見方の片方を選んで、それにしがみついているだけのことなのです。「見ているものは同じなのに相反する二つの見方がある」というのはオカシイことだと気づいてください。「あいつの方がおかしいんだ」と言ったところで、「相反する見方」の方は消すことはできませんから、悪しからず。
 皆さんが、今まで、半ば「しかたなく」「あるのが当然のこととして」やっていた、「議論」も「裁判」も「話し合い」も「喧嘩」も「戦争」も、すべて、皆さん一人ひとりの「内側の○×」が創りだす幻想ゲームだったのです。皆さんが、今まで、人から学んできたり、人に教えたりしている「あやま知」というのは「○か×か」の二元論であり、それにしがみついている限り、絶対に結論はでないのです。そして、それは、「当たり前のこと」でも「真実」でもなかったのですから、本来は「強制力」はないのです。「あやま知」の創りだした「恐れ」を使って、力という幻想を創りだしていただけなのです。
 皆さんは、今まで、「三次元(立体)」に生きていながら、「二次元(平面)」のゲームを楽しんでいた(苦しんでいた)というわけです。そして、この先は、もう、そのゲームを続ける必要はないということを今ここで提案しているのです。あとは、皆さん一人ひとりが、どういう選択をするか、を決めればよいだけなのです。「でも~」と言うのは、「あやま知」の選択ですから、そのつもりで。
 
⑬皆さんは一人残らず「宗教に狂っている人間」である
 皆さんの人生には、「絶対に正しいこと」とか、「ありえないこと」とか、「現実ばなれしていること」とか、そういうものはありません。皆さんに、そういうものが見えているならば、それは、皆さんが、「自分の見ている現実の中で生きよう」「自分の見ている現実だけが正しいのだ」という枠を自分自身に嵌めて、その通りに行動している結果、そういうふうに錯覚しているだけなのです。皆さんが、自分自身の選んだ結果体験していることw基準にして、目の前で起きていることを「判断」しているゲームに過ぎません。
 皆さんのその体験を創りだしているのは、皆さん独自の「宗教」であり、その「宗教」に枠があれば、皆さんの体験にも枠があることになり、その枠の外のものが現れると、「ありえない」「起きるはずがない」と見えるわけです。「皆がやっているから」というのも「宗教」の一つですから、いやならば、選択する必要はないのです。
 皆さんが「ありえないから」といって、それを排除していると、皆さんの体験として、いつまでも「ありえない」ままになってしまうのです。
 皆さんが、「現実は」「社会は」「常識は」と言っているものは、そういうものが「存在する」という幻想を皆さん自身が創りだしているだけに過ぎません。いわば、皆さんが皆さん自身とトリックに嵌めているようなものです。皆さん自身が「そんなことは起きるはずがない」という前提を決めて、すべてのものごとを処理しているのです。
 皆さんが、「できるはずがない」と思えば、皆さんはそれをしませんから、いつまでたっても「できるはずがない」のです。「できるはずがない」理由も、これまた、皆さんが創りだしている幻想なのです。
 この見方について、アレコレ議論をすることもできますが、永遠に並行線もまま、結論はでないでしょう。最後には、「こいつは宗教に狂っているから、言っても仕方ない」と言いだすのがおちです。その議論を創りだすのも、そういう結論を導きだすのも、皆さんが皆さんの選んだ「宗教」に狂っている証拠なのです。
 皆さんが、目の前の何かを否定したり、批判したりしたくなったとしたら、それは皆さんが、そういう見方をしているだけであって、その「何か」は○でも×でもないのです。その「何か」に決まった意味があるとしたら、議論というゲームは成立しません。皆同じものを見ますから、議論の余地はないのです。
 皆さんが「否定しているもの」は存在します。皆さんは「自分が何かを見て否定している」という、その「何か」があることを忘れています。ですから、何を議論しているかといえば、その「何か」をどう見るかという、お互いの「見方(宗教)」の正当性です。皆さんがやっているのは、「あんたと私のどっちの見方が正しいか」「どっちの見方をする人が数が多いか」というゲームなのです。これは、この見方自体の議論についても成り立ちます。この議論は、どっちかが折れない限り、どっちかが肉体的にいなくならない限り、永遠に続くことになります。
 皆さんがそういうふうに見ていること自体、皆さん自身の「宗教」そのものであり、皆さんは一人残らず、すべて「宗教に狂っている」のです。実際のところは、「心理学」も「哲学」も「宗教」も「常識」も「非常識」もすべて一つのものなのです。すべては、皆さんが、皆さんの外側にある「誰かが言っている意見」や「目の前で起きている出来事」を皆さん自身の内側の「基準」で分類しているだけで、すべて、「自分教」の正当性を主張する、「自分教」の押しつけ合戦に過ぎないのです。
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