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宇宙創世からの神のシナリオが明かされた!
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⑩皆さんは、皆さんの「魂(自分自身)」が消えるか残るかの瀬戸際にいる
 皆さんのいう存在は、「魂」が先にあって「肉体」は後の後、つまり、「魂」があって「肉体」があるのです。(これは、「神」があって「人」がある=「神」なくて「人」はない、ともいえます。)これが後々重要なことになりますので、ここでしっかりと覚えておいてください)。「肉体」で体験している「自分」という存在は、「魂」が「肉体」を通して創りだしている(感覚として翻訳している)ものなのです。皆さんは、(肉体がなくなる)「死」を恐れていますが、「魂」のイノチがなくなれば、「肉体」の命どころの話ではなく、「新しい時代」に生きることができなくなるのです。
 今ここまできて、この後に及んで「肉体の死」や「財産」や「地位」や「名誉」や「常識」や「病気」や「非行」や「不倫」や「損得」や「保身」や「裁判」云々で、大騒ぎしている場合ではないのです。
 
 数々の予言書に書かれているような、世紀末の「天変地異、大掃除」というのは、「魂」が消えるか残るか、皆さんの「魂(今世の肉体ではありません)」が生まれて以来、三〇〇〇年たって初めて迎える、「魂(皆さん自身)」が新しい世界に生きるか、今世を限りに死ぬかという選択を迫られる「大峠」のことなのです。皆さんという「魂」は、今ここで選択を間違えば、本当の意味での「大変なこと」「取り返しのつかないこと」を体験することになるという瀬戸際にきているということです。
 皆さんの今置かれている状況からすれば、皆さんが言っている「大変なこと」や「死にたくなること」や「肉体上の不老不死」や「損得計算」などは、取るに足らない、どうでもよい小さなことなのです。
 
⑪皆さんの外側には皆さんを「苦しめるもの」は何もない
 皆さんは、「○○があるから自分はこうしているのだ」と思い込んでいますが、本当は「○○があるからこうするしかないと自分がきめているからそうなっている」のです。皆さんがそういうシナリオ(宗教、観念、想念、基準)を選んでいるから、そういうセリフを語ることになるような体験をしているのです。皆さんがつくった作品を見た結果を言葉で表しているのです。皆さんがそれを言いつづける限り、その状況は変わりません。それどころか、皆さんに責任転嫁された「人」や「モノ」や「状況」にとっては、いい迷惑なのです。皆さんは、自分のしたことを自分以外のせいにして、平然と「自分の正しさ」を主張するという、神から見たら「真実を何も知らない(無知)」ことを自分から白状している気違いなのです。
 皆さんがどんな理屈をこねようとも、皆さんが体験していることは、すべて皆さん自身が選んでいるシナリオが創りだすものです。つまり、皆さんの体験は、すべて皆さん自身が創りだしているものなのです。ですから、皆さんがどんな体験をしようと、本当は「人の責任であるものは一つもない」のです。これを否定すると、ますます「人の責任にしたくなるような」体験が増えていくことになるだけですので、悪しからず。
 いつまでも「人の責任」や「状況の責任」にしていると、最後の最期に「すべて自分の責任である」ことを自覚することになるような出来事として、すべて自分のところに返ってくることになります。「人の責任ゲームをやめましょう」という提案は、神の仕組みに基づいた、皆さん自身のためのものなのです。
 皆さんは、「でも、現実に目の前にたくさんも問題があるじゃないか」というかもしれません。でも、それは、皆さんが「自分の体験は自分の外側に責任がある」という選択をしているから、そういうセリフを言う結果になっているのです。
 皆さんの外側にあるものは、すべて、皆さんの内側のあるものの投影です。皆さんの内側が綺麗に掃除されていれば、皆さんの内側に○や×や責任転嫁がなければ、「困難」や「苦しみ」を感じる状況は目の前に現れなくなってくるのです。
 「でも~」のセリフを言っている限り、「自分の外に問題(に見える出来事)がある」と責任転嫁をしていますから、その「問題」は永遠になくなりません。すべては、皆さん自身の自覚の問題(皆さん次第でどうにでも変わるということ)なのです。
 皆さんが体験している「現実」というのは、すべて、皆さんのした選択に忠実に「目に見えないメカニズム」が働いた結果です。本当は、皆さんの外側には、皆さんを「苦しめるもの」などというものは、何一つありません。皆さんが、「苦しみ」や「トラブル」を体験するのは、後で述べる「神の大きな法則」に反するシナリオを皆さんが描く(そういう「宗教」を創りだす)と、それをしていることを教えるために「困難」や「トラブル」や「苦しみ」を感じるようなメカニズムが働くからなのです。
 皆さんの悩みを救うべき宗教が「大きな法則」に反した宗教であるとしたら、皆さんの悩みを救うどころか、ますます、悩みを創りだすことになってしまうのです。
 
 詳しいことは後で書きますが、実を言うと、皆さんがこの道理を理解できないと、今までの堂々巡りのゲームからは永遠に抜け出せないばかりか、この先は、新しい時代に向けて、本来の方向へ戻す舞台作りが進みますから、このメカニズムに従って、今まで以上の速さで、ますますトラブルや悩みを創りだすことになり、「新しい時代」どころの話ではなくなってしまうのです。これは、皆さんが今まで学んできたこととは、まったくアベコベのメカニズムであり、おそらく、今回初めて聞かされたという方がほとんどでしょう。今まで教わってきたこと(「あやま知」)は、このメカニズム自体を否定することになる見方なのですから。でも、このことを認めないと皆さんは地獄への道を転がり続けることになるということをよく覚えておいてください。
 
⑫皆さんの多くは「あやま知」という「宗教」に狂っている
 多くの皆さんは、「教祖様」が言っていることや、「○○教」の言っていることや、「神様」という言葉が出てくるものや、「目に見えない世界」のことが出てくるものを「宗教だ」と定義付けしているようですが、皆さんの回りの人が言っていることや、皆さん自身が「世の中は甘くない」云々と言っているのも、すべて「宗教」なのです。
「人生どう生きるべきか」「自分の見たものをどう解釈するか」という表現のものを「哲学」と定義付けしているようですが、これもまた「宗教」なのです。そして、他でもなく、「これは哲学、これは宗教」云々、と定義付けしている皆さんのその定義自体が「宗教」なのです。皆さんは、その基準に従って、目の前のものを見て、解釈して、動いて、形にしていっているということですから、その結果は、すべて皆さん自身の責任です。
 皆さんが、「宗教」を特別な人がやる神様ごとであるとか、「哲学」を単なる学問であるとか、人のやっていることを見て「変な宗教に狂っている」などと思っているとしたら、それも皆さん自身の「宗教」であることはもちろんですが、皆さんは大きな取り違いをしていることにもなります。実は、そういう「宗教」で、ある「宗教」(自分が認めていること以外の見方、考え方、「宗教」)を拒否しているから、皆さんは真実を知る機会もなく、未だに混乱の中にいるのです。神様から見れば、皆さんは、ご自分のなさっていることを全くわかっていないという証明を自分自身でしていることになります。
 これは、今まで学んできたことでは、納得できないかもしれませんが、それは、今まで学んできたことが、そういうことに気づくことができない、まったくアベコベの「大きな宗教(「あやま知」)だからです。つまり、納得できないということは、皆さんが「あやま知」を選択している証拠なのです。皆さんがこれを認めないと、話が進まないばかりか、この先の自分自身の人生にも大きな影響がでてくることになります。
 ここに書いてあることと今まで学んできた「あやま知」とは「裏と表」の関係です。つまり、皆さんがここに書いてあることについて「批判」や「判断」を始めること自体が、「あやま知」に囚われている証拠であり、「あやま知」を選んでいることを自分自身で白状していることになるのです。「私は違う」と言っても、それも自分の正当性の主張ですから同じことです。
 皆さんは本来、いちいち自分が何を選択しているかを人に説明する必要はないのです。皆さんの言ったこと、したことを「批判」したり、「判断」したりすることを始める人は「あやま知」の中にいますから、それにまた反論するならば、相手と同じことをしているだけでなく、皆さんは永遠にその中から出られなくなります。
 そして、皆さんが、そういうゲームをしている限り、もう一つの現実を見ることはできません。今回の分岐点は、一方をキレイサッパリ捨てて、もう一方を選ぶという「どっちの宗教に狂うか」という、どっちか一つの選択です。
 皆さんの外側にはもともと○も×もないのです。皆さんが「判断というゲーム」ができるのは、皆さんの内側に○や×を持っているからです。そして、その○や×は「ある」のではなくて皆さんが「選んだ」ものなのです。皆さんが、○か×か何方かを選んでいるのです。ということは、皆さんの目の前のものには○と×の二つの見方がある(言い方を換えると、目の前ものには意味はない)ということになります。
 皆さんが「○×は外側にある」という「宗教」を選んでいれば、その現実がいつまでも続くだけです。実際は、皆さんが二つの見方の片方を選んで、それにしがみついているだけのことなのです。「見ているものは同じなのに相反する二つの見方がある」というのはオカシイことだと気づいてください。「あいつの方がおかしいんだ」と言ったところで、「相反する見方」の方は消すことはできませんから、悪しからず。
 皆さんが、今まで、半ば「しかたなく」「あるのが当然のこととして」やっていた、「議論」も「裁判」も「話し合い」も「喧嘩」も「戦争」も、すべて、皆さん一人ひとりの「内側の○×」が創りだす幻想ゲームだったのです。皆さんが、今まで、人から学んできたり、人に教えたりしている「あやま知」というのは「○か×か」の二元論であり、それにしがみついている限り、絶対に結論はでないのです。そして、それは、「当たり前のこと」でも「真実」でもなかったのですから、本来は「強制力」はないのです。「あやま知」の創りだした「恐れ」を使って、力という幻想を創りだしていただけなのです。
 皆さんは、今まで、「三次元(立体)」に生きていながら、「二次元(平面)」のゲームを楽しんでいた(苦しんでいた)というわけです。そして、この先は、もう、そのゲームを続ける必要はないということを今ここで提案しているのです。あとは、皆さん一人ひとりが、どういう選択をするか、を決めればよいだけなのです。「でも~」と言うのは、「あやま知」の選択ですから、そのつもりで。
 
⑬皆さんは一人残らず「宗教に狂っている人間」である
 皆さんの人生には、「絶対に正しいこと」とか、「ありえないこと」とか、「現実ばなれしていること」とか、そういうものはありません。皆さんに、そういうものが見えているならば、それは、皆さんが、「自分の見ている現実の中で生きよう」「自分の見ている現実だけが正しいのだ」という枠を自分自身に嵌めて、その通りに行動している結果、そういうふうに錯覚しているだけなのです。皆さんが、自分自身の選んだ結果体験していることw基準にして、目の前で起きていることを「判断」しているゲームに過ぎません。
 皆さんのその体験を創りだしているのは、皆さん独自の「宗教」であり、その「宗教」に枠があれば、皆さんの体験にも枠があることになり、その枠の外のものが現れると、「ありえない」「起きるはずがない」と見えるわけです。「皆がやっているから」というのも「宗教」の一つですから、いやならば、選択する必要はないのです。
 皆さんが「ありえないから」といって、それを排除していると、皆さんの体験として、いつまでも「ありえない」ままになってしまうのです。
 皆さんが、「現実は」「社会は」「常識は」と言っているものは、そういうものが「存在する」という幻想を皆さん自身が創りだしているだけに過ぎません。いわば、皆さんが皆さん自身とトリックに嵌めているようなものです。皆さん自身が「そんなことは起きるはずがない」という前提を決めて、すべてのものごとを処理しているのです。
 皆さんが、「できるはずがない」と思えば、皆さんはそれをしませんから、いつまでたっても「できるはずがない」のです。「できるはずがない」理由も、これまた、皆さんが創りだしている幻想なのです。
 この見方について、アレコレ議論をすることもできますが、永遠に並行線もまま、結論はでないでしょう。最後には、「こいつは宗教に狂っているから、言っても仕方ない」と言いだすのがおちです。その議論を創りだすのも、そういう結論を導きだすのも、皆さんが皆さんの選んだ「宗教」に狂っている証拠なのです。
 皆さんが、目の前の何かを否定したり、批判したりしたくなったとしたら、それは皆さんが、そういう見方をしているだけであって、その「何か」は○でも×でもないのです。その「何か」に決まった意味があるとしたら、議論というゲームは成立しません。皆同じものを見ますから、議論の余地はないのです。
 皆さんが「否定しているもの」は存在します。皆さんは「自分が何かを見て否定している」という、その「何か」があることを忘れています。ですから、何を議論しているかといえば、その「何か」をどう見るかという、お互いの「見方(宗教)」の正当性です。皆さんがやっているのは、「あんたと私のどっちの見方が正しいか」「どっちの見方をする人が数が多いか」というゲームなのです。これは、この見方自体の議論についても成り立ちます。この議論は、どっちかが折れない限り、どっちかが肉体的にいなくならない限り、永遠に続くことになります。
 皆さんがそういうふうに見ていること自体、皆さん自身の「宗教」そのものであり、皆さんは一人残らず、すべて「宗教に狂っている」のです。実際のところは、「心理学」も「哲学」も「宗教」も「常識」も「非常識」もすべて一つのものなのです。すべては、皆さんが、皆さんの外側にある「誰かが言っている意見」や「目の前で起きている出来事」を皆さん自身の内側の「基準」で分類しているだけで、すべて、「自分教」の正当性を主張する、「自分教」の押しつけ合戦に過ぎないのです。
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⑦皆さんが今まで学んだことはトラブルしか創りだせない「あやま知」である
 皆さんは、たとえ皆さんが生まれた時に「競争社会」がすでにあったとしても、それを選ぶ必要はなかったのだ、ということを知っておいてください。ただ、こういうふうに「教育」されなかっただけのことです。(競争は「原理」ではありません。)つまり、「教育」というのは、皆さんの体験を創りだす「宗教」を伝えていく重要な役割をもっているものであるということです。いわば、「学校」というのは「最大の宗教教団」なのです。
 この「教育」が「(大きな法則から見て)間違った宗教(これを「あやま知」と言います)」を教えていれば、どんなに教育しても、「間違ったもの(これを「過(あやま)つ形」と言います)しか創りだせないのです。「学校」がアベコベのことを教えていれば、いつまでたっても望むものは形になることはないということです。こういう意味からすれば、日常生活すべてが「学校」であると言ってもよいのです。そして、そこで学んだ結果が皆さんの体験であり、皆さんのすべての体験が「教育」の成果なのです。
 「学校」が「トラブル」を創りだす「宗教」を教育し続けるならば、永遠に「トラブル」を創りだす「宗教」を教育し続けるならば、永遠に「トラブル」を創りだし続けることになるのは簡単な道理です。現れた結果は、皆さんの思惑とは逆に、皆さんが望んでいない形なのです。でも、その道理を知ってか知らずか、今に至ってもまだ、同じことを繰り返している人達がほとんどだという訳です。そして、先に行けば行くほど、訳が分からなくなってくるのです。「悪いことはやめなさい」と言っても、それを創りだしたのは、「悪いこと」を決めて、「やめるべきだ」という宗教を選んで、「外をコントロールするゲーム」に同意している、そう言っている本人の問題であり、その「やめさせる」対象の人物は「悪くも善くもない」のです。
「二度と同じことを繰り返すなら許さないぞ」と言っている先生が、何度も同じことを繰り返し、そのセリフの通りのことを自分にはしていないというオカシナ結果、矛盾を持っているのが、今の「教育」なのです。自由、平和、平等、仲良し、自立を目指す学校が、「不自由」「不平等」「争い」「タテマエの付き合い」「頼り合い」を創りだす方法を教えているのです。早く気づいて完全に修正しないと、この先は、それこそ、「大変なこと」になるということを、今ここでお知らせしておきます。
 これは教育だけに限ったことではなく、今の社会ゲームすべてに当てはまることなのです。「地獄の方法」を使って、創れもしない「天国」を創ろうとしているのですから、いつまでやっていても、お望み通りのものはできません。ですから、今回の「天国の方法」三部作という道具を使って、これ以上トラブルゲームで壊さないように、今までのゲームをアベコベにする(実は、元のゲームに戻す)方法を提供しているわけです。
 皆さんは、この本を読んだら最後、「人がやったらやろう」等とのんびりしたことを言っている暇はなくなります。何せ、今までのゲームをやっていると最後の最期で自分が危うくなること、そして、元のゲームをやっていると最後の最期で自分が危なくなること、そして、元のゲームに戻すプログラムが非常に加速していることを知ることになるのですから。自分の損することはしないのが皆さんですから。
 今までは、人類の歴史を通じて、ずっと、正しいものとして、「あやま知」を教育し、「過つ形」を創りだし続けていたのです。そして、今ここに来て、ますます混乱を形にする結果となっているのです。外側を何とかしようとしている皆さんは、大きな宗教を替えないまま、善くしようとしても、アベコベの結果(さらに問題を創りだす結果)になるということをここでしっかりと学んでください。
 そして、さらに重要なことは、今ここで、もうそのやり方は一切通用しなくなる方向へと全体が加速しているということと、これを無視すると最後の最期で「取り返しがつかない、大変なこと」になること、をしっかりと認識しておいて欲しいのです。
 これは(詳しくは後で述べますが、)すべての「あやま知」「過つ形」をタテカエて(一度壊して最初の状態に戻して)、本来の形にタテナオす(別の形を創りなおす)、大きな「神のプログラム」(その最後の仕上げというのが「天変地異の形をとる外側の大掃除」であり、その前に、少しでも楽に大掃除を超えられるようにと、この本に書かれているような情報が今ここで提供されているということです)が動きはじめているからです。
 
 神の「タテカエ、タテナオシの仕組み」については、今回のメインテーマですので、後々詳しく触れることになりますが、今ここで、自分の人生についての真実を見つめていないと、皆さんという魂の存在が、今この人生で終わりになることをしっかりと覚えておいてください。(残念ながら、この「神のプログラム」は、皆さんがどんなに抵抗しようとも止められないものであり、抵抗すればするほど、自分が自分の首を締めていくことになるのです。)
 
⑧皆さんの「今体験している現実」と「死後の世界」とは一つのものである
 皆さんが「今体験している現実」と「死後の世界の(魂だけが創りだす)現実」とは、本当は一つのものなのです。今ここで、教えられてきた「善いこと」をいくらやっても、死んだあとに「天国」はありません。逆に、今ここで「悪いこと」をやっても、死んだあとに「天国」を体験することもできるのです。皆さんが言っている「善い悪い」は、皆さん自身の基準であり、今までの「あやま知」が創りだしたゲームですから、「天国の方法」を選択するにあたっては関係がありません。
 皆さんが「宗教」と言っているのは、肉体を通して感じている(認識している)「想念」であり、それは、皆さんの本体である「魂の言葉」なのです。つまり、皆さんの体験というのは、「想念」が先にあって、それを肉体で感じ、選択して、行動して、「形」が後に創られ、その「形」を見て様々な意味づけをしているということなのです。
 皆さんの持っている「肉体」の体験というのは、結果であって、原因ではありません。皆さんがどんな宗教を持っているかで、「肉体」の体験が決まるのです。
「肉体」というのは、魂の想念と肉体の外側にあるものとを結び付ける(両方を感じることができる)ための、物質の世界にいる皆さんにとっては、魂の世界を感じるための非常に大切な道具(媒体)なのです。
 
 先ほど書いた、「内側にある戦争」というのは、この「魂からくる言葉(本当の自分の宗教を翻訳したココロの声)」を「肉体を通して外から学んだ宗教(外側から取り入れた誰かの宗教を翻訳したココロの声)」で判断するゲームなのです。アタマで学んだこととハラから出てくることの戦いなのです。実を言うと、このアタマとハラの戦いを終わらせること(判断を一切やめること、○×善悪の裁きを一切やめること)を「自分自身の大掃除」と言い、「肉体」というのは、今ここで、人間の世界で、この大掃除をするための道具なのです。
 
⑨皆さんは「自分自身の魂の大掃除」をするために今ここにいる
 皆さんが、何回も何回も「輪廻転生」を繰り返していたのは、実は、この「大掃除」をするためだったのです。ただ、今までの世では、「あやま知」を教育されること(「人間の存在」を説く「宗教」という教育自体も、「あやま知」に囚われていたので、全く気づかなかったというわけです)で、「大掃除」のことなどすっかり忘れ、「何のために生まれてきたのか」などという問いをずっと繰り返す結果になっていただけです。
 このような、長い間にわたって結論が出ていない、堂々巡りの「問題創造ゲーム」をやめるには真実を知ることが唯一の道なのです。
 今回は、皆さんの「大掃除」の最後のチャンスであり、皆さんが自覚して、意識的に大掃除ができる最初で最後の機会なのです。皆さんは、皆さんという「魂(肉体ではありません)」が生まれてこのかた溜めた、すべてのゴミやホコリ(「あやま知」、○×のこと)をキレイサッパリ掃除(囚われている「あやま知」、○×を外すこと)して、新しい世を創りだすため(天国を体験できるようになるため)にここにいるのです。
 今回は、最後の最期の転生であり、今までのすべてのゴミやホコリをもって生まれてきています。ここで、気合を入れてこの「大掃除」をしなければ、皆さんには「来世」というものはありません。そして、この「自分自身の大掃除」を終わらせれば、これから起きる「外側の大掃除(天変地異)」は、何の影響もなくなり、大掃除を終わらせた人間(実は、「魂」だけが、次の世界(新しい時代)の「ヒト」となることができるのです。
「宗教(魂)」が(肉体を通して)「形」になっているのですから、「形」が「天国」でなければ(「形」は「宗教」の結果であり、「形」が天国なら「宗教」も天国である証拠。結果を見れば原因の状態が分かるのです)、皆さんが死んだ後(魂の体験)は「天国」にはならないのは、当然の道理です。「肉体がなくても天国ならば、肉体があっても天国」なのです。皆さんが「肉体を手放して(肉の服を脱いで)」も天国になるには、ココロの大掃除が必要なのです。
 
 皆さんが次の世界に生きていたいならば、世紀末に何が起きるか、どうすれば助かるか、と外を探すゲーム、大騒ぎする今までのゲームは、今ここ(「後」ではありません)でキレイサッパリやめることです。今ここからは、この道理を理解して、行動することだけが、世紀末の「大峠(天変地異、外の大掃除、外のお清め)」を越すために最も早く確実で大切なことであり、皆さんが「助かる(次の世界へ行ける、生き残れる)」(助けてもらうのではなく、自分で助かるのです)唯一の手だてなのだということを覚えておくことです。本当の本当、最後の最期に自分も人も神も助かるのです(このことについては、後ほど、詳しく書きます)。
④皆さんの人生に、単なる「宗教」や単なる「哲学」というものはない
 ここからは、本文にはいる前段階として、新しい見方(実は、人生についての本当の見方、真理)についての予備知識を得ることを兼ねて、「普通の」言葉で一通りのことを書いてみることにします。
 まず初めに、基本の基本から。皆さんは、私が前の二冊でも提案していた、最初にあげたような問いに対して、今ここでは、どんな答えをお持ちになっているでしょうか?
 皆さんの中には、「自分はこの競争社会を生き残るのに忙しくて、そんな哲学や宗教の話をしている暇などない」という方もいらっしゃるかもしれません。でも、皆さんの人生には、実際のところ、皆さんの人生に全く何の影響も及ぼさないような、単なる「哲学」や単なる「宗教」というものは一切ないのです。本当は、「哲学」や「宗教」というものは、皆さんの体験を創りだす原因となる非常に大切な道具なのです。つまり、他でもない、今ここに提示した、このセリフ自体が、皆さんに「哲学や宗教の話をしている暇をなくす」体験を創りだしている「宗教」そのものなのだということです。(ここでは「見方」「考え方」「基準」「観念」「想念」「哲学」「(今までの○○教という)宗教」等々をすべてひっくるめて「宗教」と言うことにしますので、そのつもりで読んでください)。
 皆さんの体験というのは、皆さんが選んでいる「宗教」によって、自由自在に、どうにでも変わるものなのです。皆さんの選択次第で、「自分が望むことは何でもできる」と言っても過言ではありません。実を言うと、皆さんの体験は、すべて皆さんが言っているセリフ通りになっているのです。そして、皆さんは、外側に原因を求めていますから、その見つけた原因が自分自身の創りだした作品であることを知らずに、そのセリフを言い続けることになるのです。
 皆さんがもし、「そういう考え方はおかしい」と言うとしたならば、それもまた、皆さんのもっている「宗教」の産物であり、その「宗教」をもっている限り、いつまでもそのセリフを言いつづけることになります。そして、もしやりたければ、またまた「いやそういう考え方は~」というように、やりたいだけ、永遠に、いくらでも、お好きなだけそのゲームを続けることもできます。さらに、「あんたは、バカにしているのか?」などと言うとしたら、本文をよーく読んで、それがどういうことか、よーく自分で考えてみてください。本当のことが分かったら、二度とそのセリフは言えなくなるでしょう。
 
 皆さんが、私がここで書いていることを受け入れない限り、皆さんが「や~めた」というまで、皆さんがやりたいだけ、永遠に、こういう議論を続けることもできるのです。
 言い方を換えると、「自分の現実は自分が創りだしているものである」ということを皆さんが認めない限り、「どっちが正しいか」「どっちが本当か」「どっちが正常か」「どっちが素直でないか」等々の、外側を分類判断する、結論の出ない、対立や争いのゲームを永遠に続けることになり、それに付随して、様々なトラブルを創りだし、果ては、殺し合い(戦争)というゲームまで発展し、最後には、人類滅亡というシナリオまで用意されることになってしまうのです(ただし、皆さん自身がどうなるかということは別にして、この最後のシナリオは、すでに回避されていますので、ご安心ください。詳しいことは、後ほど)。
 
⑤皆さんの「内側にある戦争」が「外側の戦争」を創りだしている
 皆さんが知っている、あるいは、体験してきた今までの戦争の歴史というのは、こういうメカニズムが働いて繰り返されてきたものなのです。実は、戦争を無くそうとすることは、戦争を創りだそうとしているのと同じことなのです。「戦争は悪いことだからやめるべきだ」といっても、永遠に戦争はなくなりません。これは、今までの歴史を見れば、明白なことです。未だに「戦争」が世界の何処かで起きていますから。そして、皆さんがた一人ひとりの日常のいざこざという戦争は絶えることなく繰り返されています。
 皆さんは「言葉」に出す以前に、必ず、自分の内側で「自分と自分との戦争」をやっています。「内側にある戦争」というのは、自分の外側にあるものを○か×かで(ココロの中で)判断するゲームです。本当に戦争を無くしたければ、外側に見えている「人の宗教」に戦いを挑むのでも、自分の正しさを証明しようとするのでもなく、「自分が戦いたくなるのは自分の内側にある○×が原因である」と自覚すること、つまり、皆さんの内側を「自分が自分のすべての現実を創りだしている」という「宗教」に入れ換えることが必要なのです。
 戦争(議論、争い、喧嘩、いじめ等々)というものは、皆さん一人ひとりが、戦争を創りだす、争いを創りだす、議論を創りだす、判断を創りだす、葛藤を創りだす、皆さんの「内側のメカニズム」に気づいて、それを変えなければ、永遠になくならないものなのです。つまり、「外側にある戦争」というのは、皆さんの「内側にある戦争」を解結しなければ、無くならないのです。
 戦争に限らず、皆さんの外側にあるものはすべて皆さんの内側にあるものの反映、鏡なのです。言い換えれば、皆さんの外側にある(見えている)ものは、皆さん自身の作品なのです。皆さんのもっている○×、善悪、正誤、良否等々の基準が外側に映っているだけなのです。このことを理解しているならば、人の責任にしたり、責任転嫁をするのは自分勝手であることに気づき、二度とできなくなるはずです。
 というわけで、戦争(けんか、いじめ、争い、議論等々)を無くすための根本的な対策というのは、皆さんの外側にはないのです。皆さんの外側をいくら探しても、残念ながら、永遠に見つかりません。外側に探せば探すほど、「善悪という基準」を使って無くそうとすればするほど、ますます「戦争」を創りだす結果となるのです。
 皆さんが、長い間、苦労して創りだそうとしてきた「平和」というものは、守るものでも、創るものでもなく、初めからあるものなのです。「平和」を守るために「戦争」をするというのは、本来、オカシイことなのです。皆さんの内側が平和ならば、外側も平和です。皆さんの外側に見える「人の宗教」やその成果である「人の作品」を批判し合っている限り、自分の正当性(裏を返せば、相手が間違っている、相手が悪いということ)を主張し合っている限り、永遠に「平和」という形はやってこないのです。
 ここでまたまた、「そんな考え方は~」と私に「戦い」を挑んでくるならば、皆さんの外側から、永遠に「争い」や「戦争」や「競争社会」や「トラブル」や「苦しみ」がなくなることはないでしょう。
 
 実を言うと、今ここで、このことに気づいて、言動を改めていかないと、近い将来、皆さんが嫌だと言っても、一人残らず、身をもって「内側の戦争が外側にある」ということをいやというほど知ることになるプログラムが用意されているのですが……。
 アレコレ書きましたが、実際のところ、もうこの「議論、戦争」ゲームを続けること自体がだんだんと難しくなってきているのです。
 このあたりの事情については、後で書きますので、そちらをご覧ください。
 
⑥皆さんの体験の原因(スタート)は皆さん自身が選んでいる「宗教」にある
 皆さんの多くは、「○○という現実があるから自分はそうするのだ」「○○という現実があるからそうするしかないのだ」「したいけれども、○○という現実があるからできないのだ」と言っています。皆さんに気づいてほしいのは、「○○という現実がある」と決めているのは、皆さん自身であるということです。ここに気づかなければ、皆さんのやりたいことは永遠にできないということになります。
 先ほどのセリフを使えば、「競争社会」が先にあるのではなくて、まず初めに、皆さん自身が「自分は競争社会に生きる」というゲームを選び、「競争社会で生き残るには○○をするしかない」という「宗教」を選ぶことを決めて、それに従って行動して、その結果を体験して導きだされたのが「自分は~」のセリフなのです。
「自分は~」のセリフというのは、自分が今やっている行動の理由ではなくて、自分のやっている行動の結果なのです。つまり、皆さんは「暇」がないのではなくて、自分で自分の「暇」をなくしているということになります。
 皆さんが、「宗教」や「哲学」の話を避けてしないということは、自分で自分の成功、幸福、永遠の安らぎ、夢の実現を放棄していることと同じことなのです。本当は、この話題は、人間として避けて通れない大切な大切な話題なのです。
 実を言うと、皆さんが、このセリフを言っている限り、皆さんのこの人生だけでなく、皆さんが死んだ(肉体を離れた)後も、皆さんには、永遠に「天国」はありません。今この人生の今ここの現実が「天国」でなければ、あの世へ旅立っても「天国」ではないのです。今ここが「天国」ならば、いつ旅立っても「天国」が約束されているのです。
 それはつまり、言い換えると、皆さんがもっている最大の恐れ(「死」の恐れ)から永遠に解放されると同時に、永遠のイノチを得るということでもあるのです。(「天国」といっても、「快楽」の一時だけの天国ではだめで、別の意味の「天国」を創りだすことが必要ですから、悪しからず。その方法について書いたのがこの本です。)
 
 こういうような真実を知ることによって、「臓器移植」や「延命治療」の是非や、それに係わる「脳死」や「生体移植」や「安楽死」や「医療ミス」等々、「肉体の死」に係わる様々な問題は、一気に、綺麗サッパリと解結してしまうのです。そして、議論に使っていた時間を自分の好きなことに使うこともできるのです。これは、この問題だけではなく、すべての悩み、すべての問題に当てはまることです。
-この本の情報は、今この瞬間から始まっています-
 
①皆さんの体験している新しい時代への変化は、皆さん自身の内側の変化である
 私が最初の本『人生というゲームの新しい遊び方』を書き終えてから早くも一年がたちました。その間、巷では、「新しい時代への変化」を予見させるような様々な出来事が何度となく伝えられ、「二十一世紀」とか「新しい時代」とか「改革」とか「変革」とか「革新」とか「過去最高」とか「史上初めて」とか「前代未聞」とか「歴史上始まって以来」とか「聞いたことがない」とか「ありえない」とか「信じられない」とかいうような言葉が絶えることなく飛び交い、「人類滅亡説」とか「宇宙人」とか「古代史の謎解き」とか「占い」とか「宗教」とか「精神世界」とか「死後の世界」とか、今までは「ありえない」「うさんくさい」と言われていたようなものが公の場で議論されるようになるなど、日本が、世界が、人類が、かつて経験したことのない新しい時代に向けての大きな転換期にさしかかっていることを誰もが認めるような状況になってきています。
 そして、「神」とか「UFO」とか「幽霊」とか「超能力」とか「セックス」とか「チャネリング」とか、少し前ならば、皆の前では公然と話せなかったような内容も、当たり前のこととして語られるようになり、情報公開とか規制緩和とか自由化とかいった言葉で表現されているように、すべてがオープン化の方向へと変化してきています。
 
 が、その反面、「人口増加」「戦争」「飢餓」「難民問題」「食料問題」「犯罪の増加」「ローン地獄」「倒産、失業、就職難」「伝染病の発生」「地震、噴火、異常気象」「事故」といったような、その原因や解結の糸口が見つからないような不安材料が次々に現れ、先行き不透明で、この先何がどうなるのかわからない、自分がいったいどうなるのか、どこへいくのかわからない、といった「世紀末」特有の不安感がますます広がってきているというのも事実です。
 
 後で詳しく述べますが、この新しい時代への変化というのは、実は、単なる皆さんの外側の変化であるというだけではなくて、「神の仕組み」という大きなメカニズムに基づいて、皆さん一人ひとりの「内側の変化」が形となって現れてきているものでもあるのです。
 
②この本は、私自身の「決死の覚悟」の実験の結果として書かれているものである
 このように、たくさんの人々が、「新しい時代の変化」を感じ、それについてアレコレと語り合ってはいても、では、その変化の本質とはいったい何なのでしょうか?
 
 はたしてどのくらいの人が、二十世紀待つの、この「大転換期」の「変革」の本当の意味というものを知っているのでしょうか?
 はたしてどのくらいの人が、それを知った上で、目の前で起きている出来事について、見て、感じて、考えて、行動して、コメントしているのでしょうか?
 雑誌や単行本やテレビやラジオや講演会等々を通じて、社会の変化や世紀末の出来事や二十一世紀という時代についての様々な情報が提案され、議論されていますが、いったい、どれが本当で、何が真実なのでしょうか?
 今、目の前で次々に起きている問題は、いったいどうしたら解結するのでしょうか?
 私たちは、実際のところ、新しい時代に向けて、どんな生き方をしていったらよいのでしょうか?
 新しい時代とは、本当のところどんな時代なのでしょうか?
 新しい時代に向けて、いったい何をすればよいのでしょうか?
 これから先、いったい何を信じて、何を頼っていけばよいのでしょうか?
 そして、この先、私たちはどうなるのでしょうか?
 
 もっとつっこんだ問いかけをするならば、
 
 私たちはいったい何のために生まれてきて、何のために生きているのでしょうか?
 私たちは今ここでいったい何をしているのでしょうか?
 私たちはどこからきてどこへいくのでしょうか?
 私たちはいったい誰なのでしょうか?
 人間というのはいったい何者なのでしょうか?
 そして、人間を創ったという「神」や「創造主」とは、本当はいったいどんな存在なのでしょうか?
 人生とは、現実とは、いったい何なのでしょうか?
 
 私自身は、この四年間というもの、朝から晩まで、寝ても覚めても、トイレの中でもこの問いかけが頭から離れませんでした。先の二冊でも書いたように、この間ずっと、片っ端から自分のノートに出てきたことを実践に移して、今まで出会わなかったことをたくさん体験していく中で、一つ一つこれらの問いに対する自分なりの答えを見つけていくことができましたが、同時に、なぜかそれだけでは納得のいかない自分がいることにも気づいていきました。
 そしてある時点から、この問いかけに対するハッキリとした答えを出して皆さんに伝えるのが自分のライフワークであると直感し、自分だけでなく、自分以外の人達にも使えるように、分かるように、提供できるような形を求めるプロセスに入っていきました。
 それからというものは、今まで学んできたものや今まで手に入れたもの(人間関係、仕事、財産、評価、考え方等々)をすべて捨てる「決死の覚悟」(なぜ「決死の覚悟」が必要だったのか、ということについては後の章をご覧ください)をして、ハラをくくって、今の今までずっと、回りから何と言われようとも、人にどう見られようとも、私自身、何がどうなるのかわからないまま、前の本で触れた「自動書記ノート」の情報に基づいて、(今まで学んできた常識から見たら全く「非常識」「アベコベ」に見える)「自分自身の答え」に忠実に行動するという実験を今の今までやり続けてきました。
 そして、そのプロセスの中で、今まで触れることがなかった様々な貴重な情報と出会い、今までの人生では考えられないほどの様々な人達と出会い、様々な奇跡を次々に体験をすると同時に、自分自身の体験したことや、新たに出てきた矛盾をその都度、自分の中で整理統合して、さらに新しい実験をすすめるというプロセスを繰り返してきたのです。
 ここに至るまで、私自身が体験してきたことについては、人に聞かれたとしても、言葉では説明できず伝わらず、気違い扱いされたり、白い目で見られたり、相手にされなかったりと、言葉では語り切れない、それはそれは苦しい道のりの連続でした。
 と同時に、その中で、私の話を必要としている方々や、自分と同じような見方をしている方々、同じような考え方を研究している方々が数多くいらしたということが、私のしていることは価値のあるものなのだと、私を勇気づけてくれたのも事実です。そうでなければ、今ここまで、ずっと続けることはできなかったでしょう。
 
 今まで出版した二冊の本は、こういうプロセスの中で皆さんのもとにお届けすることができたものですが、それでもまだ、本人の中には、何かもの足りない、スッキリしないものが残っていました。そして、今ここまで、終わったようで終わっていない、見えたようで見えない、分かったようで分かっていない、まだ何かあるが見えない、という釈然としない感覚を持ちながら、新しい遊び方の実験を続けてきました。
 今思うと、実は、これで終わりではなくて、二冊目の本を出版して以来、今この瞬間まで私がやってきたこういうプロセスそのものが、それがいったい何なのかということを明確にして、皆さんに提供するための準備をするプロセスだったのです。
 ここでもまたまた、まだこんなことが残っていたのか、というような、思いもよらなかった様々な「困難」に見える出来事や、自分のしてきたことが「否定」されるように見えるう出来事に次々に出会うという体験をしていきました。それは、今までの自分からみたらとても耐えられない出来事の連続でもありました。終わったと思っていても、まだ、そういう「困難」に見える状況に飛び込んで、自分の今まで学んだことを総動員して自分の中の様々な葛藤や混乱を乗り超えていくという体験を重ねるレッスン(修行)を通して、それを一つ一つ整理統合する、最終段階の作業が待っていたのです。
 それは、大掃除を済ませたあとの、一見、綺麗に見える部屋の隅に残っているホコリを探しだして掃除するようなものでした。そのプロセスでは、終わったと思っていたのに終わっていなかったこと、勝手に終わらせただけだったことを何回も気づかされるということの連続でした。
 そして、今、大掃除が終わって気づいたのは、そのスッキリしないものの正体というのが、実は、これから少しずつお話ししていくような「人類(実は、皆さん一人ひとり)の今後を左右する非常に非常に大切な情報」だったというわけです。
 
③この本には皆さん(人類)の今後を左右する決定的な情報が語られている
 このようなプロセスを経て、今回、ようやく、私自身の体験を通して、先の問いかけに対する、自分自身が納得できる、真実であると確信することができる「決定的な答え」を見つけるに至ったというわけです。
 それと同時に、その「決定的な答え」が、人類全体(実は、皆さん自身)の今後を左右する性格のものであることを知って、自分が何と言われようとも、どう見られようとも(そう見られることにはもう慣れてしまっていますが)、これは絶対に伝えておくべきものであると感じ、この本を
書き始めた(実は、始めることができた)という次第です。
 この本では、新しい時代への変化についての話題と合わせて、ここにあげたような、今までの歴史を通していまだに結論が出ていない「人間という存在」についての永遠のテーマについても、皆さんが初めて聞くような情報や新しいモノの見方を通して、ハッキリと答えを出していきます。ですから、皆さんは、今まで学んできたことを、すべて一旦棚上げにして、暫くの間、一切の価値判断(「でもね」「そうはいってもね」というのも含めて)をキレイサッパリやめて(と言ってもすぐ判断を始めるのが皆さんの癖ですが)、人生についてのメカニズム(=自分の現実を創りだしている法則、神の仕組み)について学び直すつもりで(すべてを初めから学ぶつもりで)読み進めていってください。
 ここでひと言お断りしておきますが、この本を読むにあたっては、皆さんが今までやっていたように、アレコレと理屈をこねて抵抗することをやめて、この中に書いてある情報を素直に受け入れることだけが、皆さんが探し求めている真実を知るため、トラブルや悩みや苦しみを解結し、本当に平和や平等や自由や幸福を創りだすための早道であるということ、そして、自分自身を次の時代へと導く唯一の方法であるということをぜひ覚えておいてください。何せ、初めて語られる情報なのですから。
 
 というわけで、この本は、今まで書いた二冊の本と今までの講演会での内容の曖昧だった部分や分かりにくかった部分を明確にする意味も含めて、「決定的な答え」とやらを、皆さんに提供できる形に整えてお知らせしておこうという趣旨のものであり、私が自らの体験を通して学んだ、私が持っているすべての情報を公開する「三度目の正直」「神の仕組みの学習の三段階の上級編」「三部作の最終決定版」とでもいえるものであることを冒頭でお伝えしておきたいと思います。
18 2009 / 05

 今回、ここに、私、「長谷章宏」の体験を通して活字になった「すべての人が成功する天国の方法」三部作の最後の一巻、すべての仕組みの種明かしをする、「人生というゲームの遊び方ガイドブック」(?)の決定版を皆さんにお贈りします。

 実を言うと、この本は、皆さんの今後の人生を決める、最初で最後の非常に非常に重要な鍵を握っている本なのです。この本の本文は、これまで世に出ている二冊『人生というゲームの新しい遊び方』『新しい時代を生きる人間学』(たま出版刊)とは違い、ワケ(本文の中に答えがあります。)あって、古文調の言い回しで語られた「伝えフミ(お手紙)」の形で書かれています。

 今回は、小題もなく少々長い文章ですが、この本全体で、非常に大切な一つのことをお伝えしていますので、「アタマ」でアレコレと考えず、細かい所にこだわらず、まずは、全体を通して大きなイメージをつかむような感じで読んでください。

 皆さんがこの本を読んだ後、日常生活の中でのいろいろな体験を重ねるうちに、今までとは違ったものが見えてくるようになると同時に、この本の中の細かい部分や、この「フミ」の真意がだんだんと見えてきますから、そういうつもりで自分の「内なる声」「ひらめき」「気づき」に素直に耳を傾け、自分が体験すること、気づくこと、感じることを見ていてください。その際、大切なことは、今まで体験しなかったようなことが起きても、否定することなく、素直にすべて受け入れるということです。

 また、機会あるごとに改めて何回か読み直してみると、そのたびに違うものが見えてくることにも気づくことでしょう。そして、この本を読んだ後は、皆さんが本当に天国になる時まで、このような体験がずっと続くことになることを、ここでひとつ、しっかりと覚えておいてください。

 この本は、何せ、今まで長い間、皆さんが当たり前のように、何の疑いもなくやってきたゲームを引っ繰り返すことになる情報を伝える本ですから、途中、文句の一つも言いたくなる所や、理解に苦しむ所、信憑性を疑いたくなるような所等々が数多く出てくるかもしれません。でもしかし、今回に限っては、そこはチョッと我慢していただいて、文句、批判、苦情の類はすべて、一旦、棚にあげていただいて、意味が分かる分からないを気にせずに、ここは一つ、騙されたと思って、人生の勉強、修行をし直すつもりで、取りあえず、辛抱して、最後まで一気に読み通してください。

 この本を読むにあたっては、皆さんが今までやっていた、「批判」「疑い」「議論」のパターンを繰り返していると、この本を出版した意味がなくなってしまいますから、とにかく今回だけは、何も知らない赤ちゃんになって、まったく新しいことを学ぶつもりで、素直になって読んでください。この文章を読んで、「でも」「そんなこと言ったって」と言っているならば、もう、前のパターンに嵌っていますので悪しからず。

 

 以上、ワケあって、この本の冒頭にあたり、まず、著者からの「この本を読むにあたってのお願い」をいくつか書き添えておきました。

 

 

 私が、前著『新しい時代を生きる人間学』を出版して以来、その中で触れた「火水伝文」や「日月神示」についての問い合わせが多く寄せられましたが、残念ながら、「火水伝文」の方は、縁のある一部の人々にだけ渡っているもので、ワケあって、出版はされていません。「では、出版されていないものをなぜ紹介したのか?」とおっしゃる方がおられるかもしれませんが、この本は、そういう方のために書かれた本でもありますから、これから書くことを読んで頂くことで、そういう皆さんへの著者からのお返事、回答になるものと思います。

 

 

 これからは、先の問いへの答えも含めて、この本の重要性について知っていただくため、この本の性格や、出版に至った経緯等々について書いていくことにします。

 

 まず初めに、先の「出版されないワケ」についてですが、それというのは、皆さんが、今までやっていたゲームの癖のままで、これらの「神示」をそのまま読むと、「自分が助かるにはどうしたらよいか」を神示の中に探したり、「神様の仕組みはどうなっているのか」を研究したり、「神示が本当かどうか」を議論したり、神示の中の言葉の違いや解釈や意味を分かろうとすることにこだわったり、「神示」を単なる予言書やマニュアルにしてしまったりというように、自分中心に、自分を守るために(「自分を守るのがどうしていけないのか?」という問いに対する答えは本文にあります)、外を探し続け、外を批判し続けるトリックに嵌っていることを気づかず、これらの「神示」を通して本当に伝えたいことが伝わらない可能性が非常に大であるからなのです。

 このことについては、私自身も、今までのすべての自動書記ノートと、それに基づくすべての体験や実験の成果、そして、この本を書くに至ったここまでの体験を総合した結果、まさにその通りであることをハッキリと結論づけることができます。

 そういう読み方をしている限り、皆さんは「最後の一厘」「最期のトリック」には永遠に気づくことはなく、最後の最期で「そんなはずは……」となってしまいますので、そのトリックに嵌っていた私自身が、四年間の「修行」を終えて、皆さんのそのトリックを外すべく、この本を書く大役をおおせつかったというわけです。

 

 この本を今ここでこの時期に書いた裏には、私の前著『新しい時代を生きる人間学』を出版した後の私自身の様々な体験を通して、「やり直しが効かない、切羽詰まったこの時期に、神示の伝えるべきことを、取り違いなく、すべての人間に伝えるために、神示を直接読む前に、皆が嵌っている最後の最期の大きなトリックに気づく必要がある」という内容が私のノートの中に出てきたという経緯があります。

 

 皆さんの中には、今までのパターンで、「もっと早く出してくれれば……」という方がいらっしゃるかもしれませんが、残念ながら、早くも遅くもなく、今ここが最適、完璧なタイミングなのです。早すぎても遅すぎても駄目なのです。

 皆さんが、最短距離で、ムリなくムダなくムラなく、効率的にトリックを外すための準備ができた時が、「その時」なのです。これは、皆さんの人生で起きることにも使える見方であり、皆さんの人生には、偶然も奇跡も間違いもなく、後悔や先案じはいらないということです。このことについては本文を読み進めれば分かってくることと思います。

 実を言うと、この本を含めた「天国の方法」三部作は、ワケあって出版されていない「神示」を先に上げたような、今までの癖を持ったままでも取り違いなく読めるように、そして、すべての人々にその真意を間違いなく伝えることができるように、「神のプログラム」に基づいて書かれた「現代版神示」三部作であることが、つい最近、私のノートを通して明かされたのです。つまり、前の二冊だけではまだ完結せず、最後の最期のこの本が、すべてのすべて種明かし、これからの鍵を握っているものだということです。

 別な言い方をすれば、前著で紹介した「日月神示」や「火水伝文」の実践版、新しい時代に向けて今ここで何をどうしたらよいのかを、ハッキリ、ズバリ、皆さんに分かりやすく、今この時代を生きている私という人間の体験のフィルターを通して書いた「現代版実践神示」なのです。

 というわけで、この本は、「火水伝文を読みたい」という皆さんのご要望に、別の形で「神様」がお答えしたものであるといえるかもしれません。

 私自身、この本を書きながら、私の今ここまでのすべての出来事、体験を振り返ってみると、今までのノートやメモや体験は、まさに、「神の仕組み」「天国の方法」「神のプログラム」を学び、体験し、自分自身の「内側の大掃除」を実際に体験するプロセスそのものであったこと、「神示」が、自分が今まで探していた人生のメカニズム、真理を語った唯一のものであり、世紀末の出来事や次の時代がどうなるかという問いへの答えの決定版であり、今までの自分自身の体験は、それが真実であることを実際に自分で実験して確認していたプロセスであることを、改めて確信しました。

 この本は、私が今までやっていた「新しい人生ゲームの実践研究」の集大成でもありますが、皆さんにとっては、この本を読むことで、前の二冊に書いてあることの本当の意味が、よりハッキリと見えてくるとともに、「天国の方法」というのは、実は、ただの考え方ではなく、「神の仕組み」という大きな裏づけがあり、人間ならば、世界中、誰にでも使える「絶対的な方法」であることを知ることになるでしょう。

 そして、この方法が、ルールに忠実に行動すればするほど、自動的に「内側のお掃除」が進み、どんどん楽に、自由になっていく方法であること、裏を返せば、外の理由を使って「できない言い訳」や「責任転嫁」をしていつまでもやらなければ、悩みやトラブルは無くならず、ますます自分自身を苦しめ続けていくことになるだけであること、にハッキリと気づいていくことになるでしょう。つまり、どちらにしても「天国の方法」の普遍性を自分の体験を通して確認していくことになるということです。

 皆さんは、今までは、こういうルールを知らず、自分の人生の中での体験を意識的に見ていくということをしていなかっただけのことで、こうやって今ここから「人生というゲーム」を意識的に見ていくというプロセスを歩み始めることで、人生の体験というものが「すべて自分で創りだしているもの」であることに気づく機会にもなるでしょう。

 実は、「天国の方法」というのは、人間に分かるような言葉、表現を使って形になった「神の仕組み」そのものであり、全体の変化に連動した、唯一絶対、安全な、「すべての人が成功する唯一の方法」なのです。言い換えれば、拒否、否定、反論、疑いを持てば、唯一絶対、危険な、「すべての人が失敗する唯一の方法」でもあるということです。

 例え、皆さんが今まで、「したいけどできない」「今の社会の中ではむりだ」「今の現実ではむりだ」「そんなものはあるわけがない」と言っていたとしても、今回、ここに書いてあることをすべて読んだ後は、「もうやるしかない」「もうこれしかない」「してもいいんだ」ということをハッキリと確信することができるでしょう。

 皆さんがどんなに理屈をこねて否定しようとしても、「神の仕組み」は動かず、皆さんに関係なく「全体の大掃除」は進んでいきます。そして、先にいけばいくほど、皆さんがどうあがいても、自分がこの仕組みの中から出られないこと、抵抗すればするほどこの仕組みに従って皆さん自身が苦しみを体験するだけのことであること、を知っていくことになるでしょう。

 また、今までの、「争い」「損得」「勝ち負け」「けなし合い」「足の引っ張り合い」「責任転嫁」「悩み」「問題」「議論」等々のゲームの本当の原因が何なのかということもハッキリと見えてくることと思います。

 

 今ここで、こういう本が出てきたということは、この機会に、皆さんが、生まれてこのかた(実は、魂が生まれてずっと)今まで何をしてきたのか、ここで一つシッカリと確認しておく必要がある時期に来ているのかもしれません。

 

 読み進めていけば、この本の中の情報(同時に皆さんの回りのすべての意見、情報)を「信じる信じない」「やるやらない」は、皆さん一人ひとりの自由であることも分かるでしょう。言い換えると、皆さんは、自分の体験のすべての責任は自分にしかないことを、今ここでハッキリと自覚することになります。そして、その結果、この先は、一切の責任転嫁ができなくなっていく(争いが消えていく)というわけです。

 ここで一言つけ加えておきますが、私の場合は、「神示」をマニュアルにしたのではなく、自分自身のノート、体験が先にあり、神示という「種明かし」は最後の最期に与えられたものであることを知っておいてください。

 つまり、この本は、「神示」の解説でも直訳でもなく、私自身が「神示」を実践を通して裏付けた、自分の体験した結果としてまとめられた本であり、「体験をした人間を通して改めて出された神示」なのだということです。

 皆さんは、まず、この本を読んで、もう一つの見方(実は、「真理」)を学び、皆さんが今まで学んできたことがどういうことだったのかということを一度振り返ってみてください。そして、実際に皆さんの人生に応用しながら、皆さん自身の人生の質を高めていってください。皆さんがこのプロセスを本気になって、素直に実行していけば、最終的には、次の時代に行くためにはどうすればよいかという回答も得られることになります。

 

 この本は、実を言うと、私の体験を書いたただの本ではなく、私という人間の体験を通して活字になった、皆さん一人ひとりにあてた、「すべてのすべてを創った大神様からの手紙」なのです。皆さんの人生のすべての悩みや疑問やトラブルを解結するための唯一のテキストと言ってもよいかもしれません。

 

 読むにあたっては、自分自身の選択について「大神様と対話する」つもりで取り組んでみてください。人の意見や人の感想というものは関係ありません。皆さんが自分自身と対話するための、皆さん自身の内側を見る鏡、皆さんの内側にあるものを知るための教材であり、私という人間を通して本当にこの「フミ」の真意を理解したとき、この「フミ」が、実は、皆さんが探し求めていた「天国への招待状」であったことがわかるでしょう。

 

 この本は、皆さんのココロの内側の状態によって、怖く見えたり、楽しく見えたりします。皆さんがこの「フミ」を読んで何を感じるかは、すべて皆さんの内側が投影されているだけで、この「フミ」自体が怖かったり楽しかったりするわけではありませんので、ここで一言、お断りしておきます。

 

 これは、皆さんが皆さんの目の前のすべてのものを見るときにも当てはまることです。そこに見えるものは皆さん自身の内側なのです。この本が、皆さんのモノの見方を根底から覆す本であることに、読み進めていくうちに追々気づいていくことになるでしょう。

 皆さんがもし、「神様」という言葉を聞いて、抵抗を感じるならば、この本はそういう方にこそ、是非読んで頂きたい本なのです。

 

 この本と併せて『人生というゲームの新しい遊び方』『新しい時代を生きる人間学』も読んで頂くと、見えない世界と見える世界、神様と人間、宗教と科学が一つであったこと、自分が自分のすべての現実を創りだしていたこと、本当の天国、安らぎ、平和、幸福、安全とは何なのか、世紀末のこの時期をどう生きていけばよいのか、ということがハッキリと見えてくると思います。

 この本は、絶対に読んで損はありません。必ず、すべての皆さんのお役にたてる本であると、ここに書いてある情報を身をもって実践した私が自信をもってお勧めします。
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